アベリア襲来[屋台大学] その1

アベリアという呼び名の人物がいる。彼女の講演会を聞いた。
その衝撃と感動をお伝えします。


語る語る語る語るアベリア

アベリアとの出会いはこちらをごらんください。
大分県別府市をこよなく愛する彼女が、別府を案内してくれたのです。
>>大分スギダラツアー 別府地獄巡り

2時間半にも及んだ講演で(そしてまだ全くの入り口だと本人談)一番深く感じたことをまず述べますと、「やれることは小さいけれど、やれることをやっています」。その宣言でした。

例え話として「山火事を前に、ハチドリがそのくちばしで水を運んで消そうとしている」というお話をしてくれました。ハチドリは、山火事がとても大きなことも、自らのひとすくいがとても小さいことも、認識している。でも、やる。

アベリアが別府の街に咲かせたいみんなの笑顔のために、やっているのは1つ1つの小さな軋轢を1つ1つ取り持つこと、それだけだと言う。でもアベリアは、別府はおろか世界中の平和を見据えていると思う。本気で。

小さな1つ1つは、小さいけれど、関わる人が増えることで大きなうねりになっていく。別府が好きすぎて「私は別府になりたい」と語るアベリアが、1つの面ではもう別府になったと思う動画をもう一度紹介してから、講演会の全部を語り始めたいと思います。
>>OAB大分朝日放送「大分ふるさとCM大賞Vol.12」/大賞
※別府の大学に通う留学生たちが、ボランティアで(お金はかけずに)アイデアを絞って手作りした別府のPR動画です。

■「誰のものでもないものを、共有する」
アベリアの講演2時間半のうち、1時間半がアベリアの背景に割かれた。しょーーじきに言えば、長いな〜〜面白いからいいけど別府での取り組みを知りたいんだけどな〜〜と、ちょっと思ってました。

いえ、でも、背景を知ることが本質でした。
今の具体的な彼女の取り組みは、本質の現れでしかないのだから。

その背景とは、別府は温泉の街だということ。
温泉は、誰のものでもない。
いっしょに温泉という恵みを分かち合うことが、別府市民の根底に流れている。

温泉の前では、いや温泉の湯の中では、裸一貫だれもが平等、肩書きや立場は脱ぎ捨てざるを得なくて、名実共にその人のそのままが露わになる場所。同様に、国籍も立場も関係なくなるのです。だって、お湯が温かくて嬉しい、心地いい、それで十分、ありがたい。

温泉のお湯のように温かな世間だった別府には、アベリア幼少時代、様々な人たちがいたという。おそらく別府の歴史の中でも特に多様な人たちがいた時代だったのではないだろうか。

それは、戦争引揚者であり、原爆療養所に通う人たちであり、進駐軍(米軍)であり、進駐軍との間に生まれた混血児と呼ばれた孤児たちであった。

今となっては、上記のような固有名詞を書くだけでも差別と言われるかもしれない。
特に、見た目の違いがあるゆえに、差別することが簡単だったと思う。

でも別府の人たちはそんな人たちを「あたりまえ」として受け入れたという。
別府の人は、いい湯加減、もとい、いい加減(いい意味で)だからだとか。
「いろいろある! いろいろあるよね! 違いもある! けどまあまあ、今日は温泉入ってゆっくりしなー!」そんなアベリアのセリフがそのまま別府の街でも叫ばれていたのだろう。

「大地の恵み」という大きなものの前に立てば、僕ら人間はみんな人間であってそれ以下とかそれ以上ってある!? そんな気持ちが、別府に、アベリアの根底に流れている。

それがアベリアの原動力の1つになっていると思う。

その2へ続く・・・